| 両手両足の切断という重い障害を抱えながらも、人生をたくましく生き抜いた1人の女性中村久子。彼女の壮絶な人生を、3つに分けてご紹介します。 |
| |
![]() 久子ができなかったことは、帯を結ぶことと髪を結うことだけだったという。 |
|||||||||
| 久子女史は1897年(明治30年)11月25日、岐阜県大野郡高山町(現高山市)に畳職人の釜鳴栄太郎・あやの長女として出生。2歳の時左足の甲に凍傷をおこし、それがもとで特発性脱疽(だっそ)になり、3歳の時両手両足を切断、闘病生活が始まる。7歳の時父を亡くし、また10歳の時弟と生別、母の再婚等苦労の生活が続いたが、祖母丸野ゆきのやさしい指導と、母あやの厳しいしつけの中で努力と独学を重ねた。結果、無手足の身で文字を書き、縫い物、編み物をこなすことを独特の方法で修得した。
|
![]() 久子は短い腕と手を使って、縫い物や編物など、日常生活に必要なほとんどの作業をこなした。 |
|
|||||||
1916年(大正5年)11月16日、女史20歳の時高山を離れ、独り立ちの生活を始める。無手足の身に裁縫・編み物・刺繍・口での糸結び・短冊書きを芸として、"だるま娘"の看板で興行界に入る。その後、弟や母との死別、また結婚と出産、夫との死別、再婚、仕事の苦労と幾多の苦難の中に生きぬく。その間、書道家の沖六鳳氏に会い書の指導を受け、また座古愛子さんに出遇って生きる方向を見つけて努力精進した。1934年(昭和9年)哲学者の伊藤証信・朝子夫婦に見い出され、興行界から身を引く動機をつかむ。
|
![]() 久子の講演活動の様子。その肉声の録音テープが現在も残っている。 |
|||||||||||
1937年(昭和12年)4月17日、女史41歳の時東京日比谷公会堂でヘレンケラー女史と出遇う。その時女史は、口で作った日本人形を贈った。ヘレンケラー女史は“私より不幸な、そして偉大な人”と久子女史に言葉をおくった。翌42歳の時、福永鷲邦氏に出遇い、「歎異抄」にふれる。歎異抄が縁となり念仏者として生きる方向を確立する。1942年(昭和17年)46歳の時、興行界より完全に身を引き求道生活を深める。50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えた。1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足、初代会長に就任、65歳の時厚生大臣賞を受賞した。69歳の時は母を顕彰し、また障害者の生きる力の糧として、国分寺境内に悲母観音像を建立した。1968年(昭和43年)3月19日、高山市天満町の自宅において逝去する。享年72歳。
|
![]() |
![]() |
|
|
||